寺山修司は、「戦後詩 ユリシーズの不在」の中で、星野哲郎を戦後詩人のベストセブンに加えて、次のように書いています。
「若いうちだよ。きたえておこう 今におまえの時代がくるぞ」の「柔道一代」の作詞をしたのが星野哲郎である。
彼はまた畠山みどりの口を通じて、こうもいっているのである。
人に好かれていい子になって
落ちてゆくときゃ ひとりじゃないか
おれの墓場はおいらがさがす
そうだその気でいこうじゃないか
星野哲郎を戦後詩のベストセブンに加えるとなると異論を唱える人も少なくはないだろう。富岡多恵子はどうしたのだ? 中江俊夫だっているじゃないか。石原吉郎や角田清文だってわるくないし、白石かずこや会田千衣子だって「いい詩」を書いているんだ。
だが、私にはやっぱり星野哲郎がいいような気がする。勿論、星野哲郎の詩には精神の深い燃焼といったものはない。文字にして印刷してみたところで、おそらく新しい感動など惹き起こさせたりはしないだろう。しかし、私は「詩の底辺」ということばを使うなら、星野哲郎こそ、もっとも重要な戦後詩人のひとりだと考えるのである。しかも、彼は活字を捨てて、他人の肉体をメディアに選んだのだ。
かわいそうにと 慰められて
それで気がすむ俺じゃない
花がひとりで散るように
おれの涙は俺が拭く
美樹克彦の歌が星野哲郎の詩を取り次ぐ。この詩のモラルは、先にあげた「出世街道」と同じように「自立」をすすめていることである。だが、これは「自立」であって「孤立」ではない。「あなたなしではさみしくて、とても生きてはいけないの」と歌った戦中派のやみくもの愛情に対して、彼の詩は生き方の処方箋を示しているのである。
高護(歌謡研究者)は「歌、いとしきものよ」の解説で、次のように書いています。
星野哲郎の作品の核となるものは「やさしさ」である。前提となるのは星野哲郎の全人格であり、別の言い方をすればそれは「こころ」である。
あしたのあしたは またあした
あなたはいつも 新しい
希望の虹を だいている
(三百六十五歩のマーチ)
涙の終りの ひと滴
ゴムのかっぱに しみとおる
どうせおいらは ヤン衆かもめ
泣くな怨むな 北海の
海に芽を吹く 恋の花
(なみだ船)
極私的な話題でもなく、泣かせようとか笑わせようとか、大上段からテーマを振りかざすわけでもなく、破天荒な人生を描くでもなく、心のつぶやきでもなく、かといって特別なドラマを仕立てるわけでもない。怨むことも拗ねることもない。
どの作品をみても星野哲郎の作品は「やさしさ」に満ち溢れている。
なかにし礼は星野哲郎について「最初で最後の作詞家」と言いました。
最初で最後の「作詞家」。人は長じると、時代の変化に応じ、表現のスタイルを変えたり、ほかの領域に手を広げたりするものだ。しかし、星野先生は、自分の呼吸のようなものを守り通したのだと思っている。
「若いうちだよ。きたえておこう 今におまえの時代がくるぞ」の「柔道一代」の作詞をしたのが星野哲郎である。
彼はまた畠山みどりの口を通じて、こうもいっているのである。
人に好かれていい子になって
落ちてゆくときゃ ひとりじゃないか
おれの墓場はおいらがさがす
そうだその気でいこうじゃないか
星野哲郎を戦後詩のベストセブンに加えるとなると異論を唱える人も少なくはないだろう。富岡多恵子はどうしたのだ? 中江俊夫だっているじゃないか。石原吉郎や角田清文だってわるくないし、白石かずこや会田千衣子だって「いい詩」を書いているんだ。
だが、私にはやっぱり星野哲郎がいいような気がする。勿論、星野哲郎の詩には精神の深い燃焼といったものはない。文字にして印刷してみたところで、おそらく新しい感動など惹き起こさせたりはしないだろう。しかし、私は「詩の底辺」ということばを使うなら、星野哲郎こそ、もっとも重要な戦後詩人のひとりだと考えるのである。しかも、彼は活字を捨てて、他人の肉体をメディアに選んだのだ。
かわいそうにと 慰められて
それで気がすむ俺じゃない
花がひとりで散るように
おれの涙は俺が拭く
美樹克彦の歌が星野哲郎の詩を取り次ぐ。この詩のモラルは、先にあげた「出世街道」と同じように「自立」をすすめていることである。だが、これは「自立」であって「孤立」ではない。「あなたなしではさみしくて、とても生きてはいけないの」と歌った戦中派のやみくもの愛情に対して、彼の詩は生き方の処方箋を示しているのである。
高護(歌謡研究者)は「歌、いとしきものよ」の解説で、次のように書いています。
星野哲郎の作品の核となるものは「やさしさ」である。前提となるのは星野哲郎の全人格であり、別の言い方をすればそれは「こころ」である。
あしたのあしたは またあした
あなたはいつも 新しい
希望の虹を だいている
(三百六十五歩のマーチ)
涙の終りの ひと滴
ゴムのかっぱに しみとおる
どうせおいらは ヤン衆かもめ
泣くな怨むな 北海の
海に芽を吹く 恋の花
(なみだ船)
極私的な話題でもなく、泣かせようとか笑わせようとか、大上段からテーマを振りかざすわけでもなく、破天荒な人生を描くでもなく、心のつぶやきでもなく、かといって特別なドラマを仕立てるわけでもない。怨むことも拗ねることもない。
どの作品をみても星野哲郎の作品は「やさしさ」に満ち溢れている。
なかにし礼は星野哲郎について「最初で最後の作詞家」と言いました。
最初で最後の「作詞家」。人は長じると、時代の変化に応じ、表現のスタイルを変えたり、ほかの領域に手を広げたりするものだ。しかし、星野先生は、自分の呼吸のようなものを守り通したのだと思っている。
周防大島逗子ケ浜・筏八幡宮境内の「なみだ船」の歌碑には次のように書かれています。
星野哲郎は本町和佐の出身で、戦後の日本の歌謡史を鮮やかに彩った名作詞家の一人である。
彼は人を愛し、人との出逢いをこよなく大切にし、その千数百余点にも及ぶ珠玉の作品は誠実、尊敬、信頼、愛情、仁義、努力、希望など、彼の人生観の綾糸で織りなされており、つよく大衆のこころをひきつけている。
星野哲郎は本町和佐の出身で、戦後の日本の歌謡史を鮮やかに彩った名作詞家の一人である。
彼は人を愛し、人との出逢いをこよなく大切にし、その千数百余点にも及ぶ珠玉の作品は誠実、尊敬、信頼、愛情、仁義、努力、希望など、彼の人生観の綾糸で織りなされており、つよく大衆のこころをひきつけている。
星野哲郎の作詞の原点は、故郷周防大島町大字和佐での若き日の闘病生活にあります。
彼は地元の開導小学校、旧制安下庄中学校、静岡県清水の高等商船学校を卒業し、日魯漁業「第6あけぼの丸」の漁船員として東シナ海で操業していました。
彼は地元の開導小学校、旧制安下庄中学校、静岡県清水の高等商船学校を卒業し、日魯漁業「第6あけぼの丸」の漁船員として東シナ海で操業していました。